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Research Center for World Buddhist Cultures

世界仏教文化研究センター

活動内容

【開催報告】2019年9月19日(木) 研究会「日本仏教学におけるインドと近代化―南条文雄から泉芳璟まで―」「日本仏教の西洋進出―東陽円月とその門下を中心に―」を開催しました

開催日時
2019年9月19日(木)15:00~16:30
開催場所
龍谷大学 大宮学舎 西黌2階 大会議室
講演者

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研究会

発表1「日本仏教学におけるインドと近代化―南条文雄から泉芳璟まで―」

Paride Stortini

(龍谷大学世界仏教文化研究センター 嘱託研究員、シカゴ大学大学院 博士課程)

 

発表2「日本仏教の西洋進出―東陽円月とその門下を中心に―」

菊川 一道(龍谷大学世界仏教文化研究センター 博士研究員)

 

司会・コメンテーター 嵩 満也(龍谷大学 国際学部 教授)

 

(左から)菊川氏、Paride氏、嵩氏

 

 

 


 

 

 

2019年9月19日、Paride Stortini氏(龍谷大学世界仏教文化研究センター 嘱託研究員、シカゴ大学大学院 博士課程)と菊川 一道氏(龍谷大学世界仏教文化研究センター 博士研究員)による公開研究会が開催された。

 

Paride氏は、「日本仏教学におけるインドと近代化―南条文雄から泉芳璟まで」と題して、明治から大正期にヨーロッパに留学した南条文雄(1849-1927)とその弟子・泉芳璟(1884-1947)に着目し、彼らが導入したサンスクリット語学や仏教学など、「インド」に関する多様な知識や経験が近代日本仏教へ与えた影響について分析した。

 

明治以降、ヨーロッパの大学へ留学して最先端の学問を学び、帰国後に近代仏教学の発展に貢献した僧侶が多数存在した。言語学や比較宗教学の権威として高名いオックスフォード大学のMax Müller(1823-1900)に師事した南条文雄は、その代表的人物として知られる。Paride氏によれば、宗教の神話的・迷信的側面を除去すべく宗教改革をめざしていたMüllerは、南条や高楠順次郎(1866-1945)などの日本人留学生に対して、インド仏教の知識を授けることで、日本仏教も改革できると考えていた。

 

留学を終えた南条は、Müllerに学んだサンスクリット語や仏教学を駆使し、国内で大乗非仏説論やキリスト者からの浄土教批判に応答した。インド学に基づく近代仏教学の習得は、結果的に経典研究を飛躍的に向上させるだけでなく、自身の信仰を外敵から守る護法的役割を果たした。

 

他方、イギリスのサンスクリット学者Arthur MacDonnell(1854-1930)のもとで学んだ泉芳璟は、南条よりもインドに長期間留学できたことで、語学のみならず民俗学や自然史など幅広い知識を習得した。帰国した泉は大谷大学でインド学の教鞭を執りつつ、サンスクリット語関連の入門書を出版するなど、南条にも増してMüllerの期待に応えた。

 

注目すべきは、西洋のインド学がイギリスによるインドへの植民地主義に基づいていることを泉が喝破した点にある。泉によれば、近代科学が西洋で発展するより前に、古代インド文化は独自に発展し、教学や天文学などの独自の科学が誕生したとされる。したがって、本来、インド文化は西洋から独立しているため、日本人はインド学を通して近代西洋科学とは異なるより深く多様な知識を習得できると泉は考えていた。このように、インド学は西洋から輸入された学問であったけれども、一方で西洋に由来しない未知の知見を近代日本仏教にたらしたのである。この点は泉が述べた仏教に対する国家主義的な見解とも関連する。

 

質疑応答では、泉のインド経験とインド学の習得法、そして彼のMüllerの期待への応え方に関して問われた。泉のインド経験と印度学の学び方についての回答として、Paride氏は泉のイギリスでの研究状況と師匠MacDonnellとの関係についてより詳しく述べ、サンスクリット文学、特にカーマスートラ研究に影響を与えたことも紹介した。最後に、泉がサンスクリット語の教科書を出版し、また大谷大学での教育に貢献した事実から、Müllerの期待へ応えたと考えられると答えた。

 

 

続いて「日本仏教の西洋進出―東陽円月とその門下を中心に―」と題して菊川氏が発表した。菊川氏は、19世紀末に始まる日本仏教の西洋進出に「視察」「留学」「開教」という段階があったことを紹介しつつ、教団公式開教に先立ち実施された東陽円月(1818-1902)門下の私的なハワイ開教の実態とその背景について論じた。

 

日本仏教の本格的な西洋との接触は、明治5年、東西本願寺の関係者がヨーロッパへ渡航したことに端を発する。彼らは欧州の最新事情を学ぶことを目的とした「視察組」と、ヨーロッパのトップ大学で学問を志す「留学組」に分けられる。これらの背景には、優秀な人材を欧米列強へと派遣して、最先端の知見や学問を習得させることで、仏教の近代化を図ろうとする仏教界の狙いがあった。

 

視察と留学の時代を経て、仏教教団が本格的に「開教」に乗り出すのは明治20年代後半、ハワイでのことだった。だが、それ以前、非公式にハワイへと赴いた曜日蒼龍(1855-1917)という僧侶がいた。大分県出身の曜日は、当時の新聞雑誌を通して、ハワイで苦悩する日本人移民の存在を知り、単身ハワイへと渡った。

 

興味深いことに、曜日は将来的に師匠である東陽円月の門下を中心にハワイ開教を展開したいと考えていた。菊川氏は、当時の真宗には「海外宣教会」や「真宗青年伝道会」など、海外との交流に関心を寄せる結社が存在したにもかかわらず、曜日が東陽門下に期待を寄せた背景には、彼らと思想や信仰、行動規範を共有するところが多く、開教を順調に進めるには最も有効な戦略だと考えたためであろうと分析した。

 

東陽門下には現実社会の諸問題解決に積極的に携わろうとした僧侶が同時多発的に誕生しており、曜日蒼龍の非公式ハワイ開教もそうした動向の一つと捉えることが出来る。と同時に、そうした社会派・国際派の僧侶が育成された背景に、自身も社会派であった東陽円月の生き様とユニークな真宗教学があったことを菊川氏は指摘した。「日本仏教と西洋」の問題は、教団派遣による視察や留学経験をもつエリート僧を中心に描かれる傾向が強いが、実際には地方の伝統寺院に拠点を置き、中央の英才教育とは無縁の僧侶によって行われた海外進出があったのである。

 

質疑応答では、曜日のハワイ開教に仏教西洋化の要素が見られるかについて問われた。これに対して菊川氏は、曜日らの開教対象が日本人移民に限定されていた事実や、また彼らには外教国の最前線でキリスト教による日本人教化を阻止したいという思惑があったことなどを紹介した。その上で、東陽門下の西洋進出は結局のところ、日本国内の問題解決に意識が向けられており、西洋化の問題は教団公式開教後の今村恵猛(1868-1932)などの時代を待たねばならなかったと応答した。

 

 

 

主催
龍谷大学世界仏教文化研究センター
共催
龍谷大学アジア仏教文化研究センター
ポスター
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