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Research Center for World Buddhist Cultures

世界仏教文化研究センター

活動内容

【開催報告】2020年2月19日 研究セミナー「近世後期における知の集積と思想交流」

開催日時
2020年2月19日(水) 17:30~19:00
開催場所
龍谷大学 大宮学舎 東黌205教室
講演者

発表1 万波 寿子(世界仏教文化研究センター 嘱託研究員)

テーマ 「丹山順藝の蔵書の特徴―浄土教聖典を中心に―」

 

発表2 三栗 章夫(世界仏教文化研究センター 客員研究員)

テーマ 「惑乱以後の派生学解論争―特に絵像本尊の理解について―」

 

 

2020年2月19日、研究セミナー「近世後期における知の集積と思想交流」を開催した。本セミナーは当センター特定公募研究「大瀛『横超直道金剛錍』の研究」が企画したものである。

 

まず、近世文学が専門の万波寿子氏が「丹山順藝の蔵書の特徴―浄土教聖典を中心に―」と題して発表した。江戸時代の大谷派学僧である丹山順藝(たんざん じゅんげい、1785-1847)は、その業績に比して先行研究が少ない。現福井県越前市の浄勝寺に生まれた順藝は、7歳にして香月院深励(1749-1817)の門下に入る。深励のもとで順藝は多様な典籍の書写を行った。ただし、深励所持本を参照しつつも、可能な限り各地の原典を探し求めて極めて精緻な本文校訂を行うなど、その学問姿勢は師を追従するだけに止まらない。その後、『金剛般若経』の唐代注釈書を校訂したことを契機に、当時流布していた黄檗版大蔵経の誤りの多いことに気づき、建仁寺所蔵の高麗版大蔵経を用いてこれを校訂した。

 

順藝は蔵書家としての一面も持つ。浄勝寺にはかつて3500冊を超える書物が所蔵されており、これは他の一般寺院には類例を見ない。現在、順藝の蔵書目録がいくつか伝えられる。なかでも注目されるのは、順藝自身が記したと考えられる『丹山目録』である。『丹山目録』の構成は独自で大蔵経形式の配置をとっており、これは智洞編『龍谷学黌内典現存目録』全五巻のうち、三巻から五巻の構成を忠実に踏襲したものである。三業惑乱で名高い智洞は、現龍谷大学に収蔵される典籍類の蒐集に多大な貢献を残したことでも知られる。本願寺派の、しかも三業惑乱の敗北側の責任者である智洞の目録を利用している点に、順藝の強いこだわりや特殊な問題意識があると考えられる。万波氏は、智洞や順藝の目録は書物文化研究の観点からも極めて価値が高く、今後、大蔵経研究と併せて精査される必要があることを指摘した。

 

次に、真宗学が専門の三栗章夫氏が「惑乱以後の派生学解論争―特に絵像本尊の理解について―」と題して発表した。1797年に生じた三業惑乱は、江戸幕府など本願寺派内外を巻き込む一大事件であった。最終的に教学の裁断権を握る本山側が敗訴したために、後の本願寺派の教学上の根幹を揺るがす事態となった。三栗氏は特に三業惑乱とそれ以後に派生的に起こった問題を取り上げ、そこで浮上した課題と教学的問題を抽出し、現在、正統とされる教学が形成した背景について論じた。

 

特に、惑乱がもたらした課題として聖教の問題を挙げた。親鸞や歴代宗主の著作の多くは、写され保存される。そこで作られた写本の文言には、意図的か否かは不明であるが、時に教学解釈に影響を与える内容も存在する。惑乱の際にもそうした写本問題が立ち現れた。また、惑乱によって教学の骨格は定まったものの、惑乱以後も詳細をめぐる議論は継続されており、現在の正統とされる教学に与えた影響は少なくない。なかでも注目されるのが本尊論争である。在野派最大の論客であった大瀛は、『横超直道金剛錍』において、三業派の問題として、絵像と木像を名号と同等に扱っていた点を指摘。大瀛は、絵像と木像を信心獲得の場から外し、あくまでも信後の報恩行の場のみに位置づけ、絵像と木像を名号と区別した。一方、惑乱の際、大瀛と同じ側に立っていた道隠や履善は、両像を名号と区別する大瀛の解釈を批判した。当時の一般的な解釈では、道隠らの解釈が正当であった。

 

上記事例などを踏まえ、三栗氏は今後、三業惑乱を本山(三業派)VS在野(非三業派)としてのみ捉えるのではなく、さらに周辺に派生した問題を含めて精査する必要があると指摘した。

 

(左)万波氏 (右)三栗氏

 

会場の様子

 

会場の様子

 

 

 

 

 

主催
龍谷大学世界仏教文化研究センター、特定公募研究「大瀛『横超直道金剛錍』の研究」
ポスター
チラシ「近世後期における知の集積と思想交流」