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Research Center for World Buddhist Cultures

世界仏教文化研究センター

活動内容

【開催報告】12月10日(木)講演会「悪人正機の倫理学」

開催日時
2020年12月10日(木)
開催場所
オンライン(Zoom)
講演者

藤丸 智雄 氏(本願寺派総合研究所 副所長)

 

2020年12月10日、藤丸智雄氏を招いて講演会“悪人正機の倫理学”を開催した。仏教学が専門の藤丸氏は、近年は仏教と「公共性」や「倫理」問題等にも取り組み、多くの成果を発表されている。講演では、本願寺派が発行する『季刊せいてん』の連載内容をもとに、親鸞と倫理をめぐる問題群について論じられた。以下講演の内容である。

 

倫理問題は神の命令が絶対でなくなり、民主主義の萌芽が台頭するなかで生じた。自由を獲得した人々は、自ら「なすべきこと」(善)と「なすべきでないこと」(悪)を検討する必要性に迫られた。

 

果たして、仏教は倫理的と言えるのか。「生まれながらバラモンになるのではない。行いによってバラモンになる」という「行為」を重視する釈尊の教説にもとづけば、仏教は倫理的性格を大いに有しているといえる。ただし仏典には、身口意の三業のうち身業が重要だと説いて苦行を奨励するニガンタ・ナータプッタの弟子が、意業が重要だと説くブッダに出会って、回心する場面が説かれている。つまり帰結主義ではない、行為に結びつく意業(意思)をより重要視する仏教の姿もみてとれる。

 

釈尊同様、親鸞もまた倫理にまつわる記述を多く残した。なかでも『歎異抄』にはその様子を多く伺うことが出来る。例えば第一章には「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々」とあり、弥陀の救済と個人の善悪が結びつけられておらず、であるがゆえに善悪を考える積極的必然性が生じたと考えられる。

 

また第四章には、聖道の慈悲について「おもふかことく、たすけとくること、きはめてありかたし」とあり、他方、浄土の慈悲について「今生にいかにいとをし不便とおもふとも、存知のことく、たすけかたけれは、この慈悲始終なし」とある。本箇所には、釈尊と同じ動機説を支持し、帰結主義の不完全性を説く親鸞の姿が読みとれる。

 

ただし、行為を導く「意思」をめぐっては、個人において完結しているとは言い難く、無数の縁に拠るという側面がある。したがって独立した自由意思を認めるかどうかは、極めて難題である。『歎異抄』第八章では、「念仏は行者のために非行非善なり。わかはからひにて行するにあらされは非行といふ。わかはからひにてつくる善にもあらされは非善といふ」と述べられるなど、親鸞もまた個人の独立した意志にもとづく行為を否定している。背景には「普遍」なる阿弥陀如来によって善悪を知ることの限界に到達した親鸞自身の信仰的立場があった。このような立場に立って浄土真宗は善悪を問うてきたのである。

 

質疑応答では、親鸞の「消息」に、信心獲得によって「無明の酔いもようやくすこしずつさめ、三毒をもすこしずつこのまなくな」る実態が説かれており、念仏者は善を為すよう努力するようになる、と解釈できる点などをめぐって議論された。今後、『歎異抄』以外のテクストも考慮した親鸞の倫理問題を考察することの必要性などについて意見が交わされ、講演会は終了した。

 

藤丸智雄氏

 

オンライン中継の様子

 

会場の様子

 

参加者との記念撮影

 

主催
龍谷大学世界仏教文化研究センター(RCWBC)