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【報告】公開研究会「仏教保育の戦前と戦後をつなぐ~歴史に学ぶ「真」と「新」~」

2025.10.16

 2025年8月30日(土)13時30分より、本学深草学舎灯炬館3階301カンファレンス室において、公開研究会「仏教保育の戦前と戦後をつなぐ~歴史に学ぶ「真」と「新」~」が開催された。
 本研究会は、2025年度龍谷大学世界仏教文化研究センター応用研究部門・萌芽的公募研究(共同)「昭和期における仏教者による児童対象事業の総合的研究」(研究代表者:中根真氏)のプロジェクトの仏教保育班によるものである。

              中根真氏

 はじめに、研究代表の中根真氏(本学短期大学部教授)から、本プロジェクトと研究会の趣旨説明がおこなわれた。本プロジェクトは、先行研究においてそれぞれ個別に研究されてきた仏教の保育・児童保護・少年教化を一度に扱いながら、それら三つの担い手の性別分業や役割分担の共通点・相違点にも立ち入って研究をおこなうことを企図している。また、今回の研究会は1925(昭和元)年から1945(昭和20)年における仏教保育の状況を整理するとともに、戦前・戦中・戦後の仏教保育の関心事や課題、関係者の言説から当時のジェンダー規範を明らかにする試みである。
 さらに、『保育資料』(浄土真宗本願寺派保育連盟、1953年創刊)の総目次を作成し、コンテンツの可視化を図ることで、仏教保育において過去にどのような特集が組まれ、議論されていたかを明らかにすることで、現在さまざまに語られる「真宗保育」や「まことの保育」の意味を歴史的に確認するねらいもある。
 なお、本研究会の副題である「~歴史に学ぶ「真」と「新」~」については、倉橋惣三の「保育の新と真」から採られたもので、「真」とは変えてはいけない時代を超えても変わらないもの、「新」とは時代が変化するなかで新たになってゆくもの、という意味があると解説された。

             宇治和貴氏

 第一の研究報告は、宇治和貴氏(筑紫女学園大学教授)による「仏教保育開始期研究の現状報告―ジェンダー的視点も交えて―」と題しておこなわれた。
 仏教における慈善事業・社会事業は、明治初頭の廃仏毀釈やキリスト教への対抗意識から仏教の有用性を示すために各宗派の共同で展開された。1908(明治41)年、内務省主催の感化救済事業講習会を契機に仏教界全体に社会事業の必要性が認識されたことで、各宗派が相次いで教団内に社会課を設置した。大正後期には事業の担い手は各宗派の共同から各宗派単位へ移行し、昭和期に入ると国内外の恐慌を起因とする農村問題の深刻化をうけて地方末寺まで拡大され、寺院社会事業期へと移行した。
 1922(大正11)年の浄土真宗本願寺派社会科設置に伴って社会部長となった藤音得忍は、それまでの慈善・救貧活動の路線とは異なる社会連帯主義にもとづいた近代的社会事業思想を基本とした路線をとる。藤音の後に社会部長となった山崎精華は、本願寺派の社会事業について言及し、宗教者として社会に関わっていくという熱意をその著作『教団と社会事業』(本派本願寺教務局社会、1933年)のなかで言及し、仏教保育とは宗教的実践のなかにあると考えられる。さらに山崎は、田村克己『宗団を中心とする農繁期保育事業の理論と実際』(社会部叢書第7集、1928年)の「序」にて、「農村寺院の行ふ最も相応はしい社会的施設は農繁期に於ける保育事業と考えられる」と述べる。この記述について、宇治氏は真宗寺院が農村部に多かったことから、そこでおこなわれる社会事業として「保育事業」が注目されたと指摘した。
 仏教保育事業の開始時期、明治期においては幼稚園と保育園は未分化であり、さらに官立・私立などの区別が存在する。仏教保育の先駆けである農繁期託児(保育)所の開始は、1890(明治23)年頃に鳥取県気高郡美穂村の庵において下味野子供預り所として自然発生的に始まったとされている。 以降も昭和恐慌による農村不況の深刻化と、満州事変以降の戦争拡大による労働力の不足は、季節(農繁期)保育の必要性を増大させ、仏教各派が教団を挙げて保育事業に参画させる要因となった。浄土真宗本願寺派(以下、本願寺派)においても、大正後期以降に常設の保育園(幼稚園を含む)が、昭和以降に季節(農繁期)保育園が急速に増加している。こうした事情から、現在確認できる仏教教団関係の保育関連刊行物は、季節(農繁期)保育が急増する昭和以降の時期に集中しており、その内容も季節(農繁期)保育に関するものが大半であった。
 真宗教団レヴェルでの最も早い段階で仏教保育への言及は、『真宗』誌上に掲載された1925(大正14)年11月29・30日に京都市の稚松小学校において開催された「第一回大谷保育大会」の報告記事と考えられる。その内容は、時勢と大谷派本山の要求によって、1923(大正12)年に6か所であった宗派内の保育事業も34か所増加したために保育事業の充実と研究を目的に大谷保育大会が開催されたというものである。また、大日本仏教慈善会財団創設の社会事業研究所が社会事業従事者養成(教育)の取り組みとして、1919(大正8)年11月とその翌年に、築地本願寺で保母養成講座を開催する。本願寺派においては、1921(大正10)年に農村託児所を開設したことが花円淵澄の『すぐに役立つ農繁期託児所の理論と実際』(1937年)に記述されていることから、1921年前後に農繁期託児所、ないし保育事業が始まったことが窺える。
 農繁期託児所開設の当初の目的は、農繁期に母親の「足手纏い」になるこどもを寺院にあずけるという名目からはじまったが、他方では、寺院に対する反感が広がる状況において、寺院の社会的有用性を示すことで寺院経営を安定させるねらいが、田村克己『農繁期保育事業のすゝめ』(大谷派本願寺社会課、1931年)から窺える。
 また、氏の報告では戦前期仏教保育におけるこども観についても言及された。氏は、宇治和貴・金見倫吾の共同執筆である「昭和初期仏教保育事業開始期の状況と子ども観」(『筑紫女学園大学・短期大学部 人間文化研究所年報 第二十五号』2014年)を参照し、命を選別する国家の価値観からの自律を仏教教団が果たせていなかった金見の指摘を紹介した。仏教保育のなかでもこどもたちは選別の対象であり、次代の「家」(=寺院の経済的基盤)・国家の担い手としてみられ、国民育成と宗教教育とが矛盾なく一体のものとして成立し、展開されたのが当時の「仏教」保育実践であったという。
 一方で、南至玄『保育の栞』(本派本願寺社会部パンフレット第2輯(1928年10月15日))では、フレーベルの幼児教育法を取り入れて、こどもの自発的活動を尊重する姿勢が重要であることが記されている。花円淵澄は『すぐに役立つ農繁期託児所の理論と実際』(1937年)において、「私の託児所のモットーは「子どもの世界で一日暮らせ」である。昔の子守の仕方は大人本位で子供の興味など没却して只大人の都合の良い場所でのみ遊ばせてゐたのである。「子供の世界で一日暮らす」には子供本位であること、子供を遊ばせる観念を捨てて子供と遊ぶやうにすることが必要である。子供と遊ぶとは大人が子供の遊んでゐる場へ仲間入りをするのである」と述べていることから、こどもを保育の主体として考えるという発想もあったことが指摘された。
 また、現代保育の祖といわれる倉橋惣三が『仏教保育』第一巻(仏教保育協会発行、1933年11月)に「仏教保育の創刊を祝す」を寄稿していたことから、倉橋の保育理論を仏教保育協会でも取り入れようとしていたことが確認できる(倉橋は1933(昭和8)年に協会の顧問に就任)。
 氏は仏教保育開始期のジェンダーの問題についても言及し、農繁期託児所の手引きには、寺院には妻と娘がいるのでこどもをあずけるべきであると書かれていることが多いことを挙げ、なぜジェンダー役割として女性にこどもの世話役があてられているかを問題視して、以下のような指摘をした。
 『幼稚園令』(大正十五年勅令第七十四号)では、「第九条 保母ハ幼児ノ保育ヲ掌ル保母ハ女子ニシテ保母免許状ヲ有スル者タルベシ」「「第十条 特別ノ事情アルトキハ文部大臣ノ定ル所ニ依リ保母免許状ヲ有セザル女子ヲ以テ保母ニ代用スルコトヲ得」とあることから、仏教保育においても当時の認識から外れて考えることはなかった。しかし、そうした状況においても花円淵澄は『すぐに役立つ農繁期託児所の理論と実際』(本派本願寺、1937年)のなかで、保母が女性に限られることに対して批判しているが、保育園を「大家族」と捉えて父と母が必要であると主張する。このように保育園を「家族」と捉える背景には、戸主が大幅な権限を有する明治民法を基にする家制度が存在していたことが影響している。保育や仏教をジェンダー的視座を含めて検討をおこなうには、家族国家観や国民国家観の枠組みで性別を捉える必要があり、それは当時の保母の給与の低さなどにも表れている。氏は、現在の保育士の給与も、「子どもは家の中で女性がみるもの」という認識が尾を引いているのではないかと述べた。
 保育事業は「子育ては家のなかの仕事」という考え方で開始されており、それは仏教教団においても同様であった。氏は、「家庭的な保育」とは一見すると魅力のある言葉のように思えるが、その「家庭」を「さまざまな家庭」ではなく、「あるべき良き家庭」を前提してしまうと、家族国家観の延長線上の「家族」や「家庭」に捉われてしまう恐れがあると指摘した。。そして、個を個として尊重する保育理論の確立が、仏教保育における課題であり、強みではないか、と提言して報告を結んだ。
 

              盛智照氏

 第二の研究報告は、盛智照氏(筑紫女学園大学非常勤講師)によって「戦前期仏教保育事業の理念とその展開―本願寺派を中心に―」と題しておこなわれた。
 明治期から大正初期における乳幼児・児童を対象とした慈善救済事業は、孤児などの保護・養育をおこなう「育児事業」が主流であり、長谷川良信『社会事業とは何ぞや』(マハヤナ学園出版部、1919年)では、1918(大正7)年時点で育児事業の全国事業数は140、被救護人員8,000人、経費50万円とされているが、「昼間保育事所(ママ)」は「全国にザット三十位」と記されている。
 大正末から昭和期を通じて保育所数は急激に増加するが、その背景には、近代産業の発達に伴う婦人労働者の増加と第一次大戦末期の物価高騰や戦後恐慌のなかで、労働争議や小作争議が頻発し、米騒動に代表される社会問題への対応が国家の重要な政策課題として浮上したことが挙げられる。都市細民や農村問題対策として託児所設置の社会的要求が高まったのである。
 『農村に於ける社会事業の概況』(内務省社会局社会部、1927年)によれば、農繁期託児所について➀開設場所として寺院や学校が便宜であること、➁国または府県において普及・助成制度を整えること、➂季節に限らず永続的施設として開設されること、が望まれている。また、兵庫県では1927(昭和2)年の「兵庫県農繁期託児所設置奨励規定」において就学前児童15人以上収容と農繁期に10日間以上開設ことなどを条件に奨励金の交付を規定した。その成立背景には本願寺派僧侶・花円淵澄等の存在が考えられる。また、昭和初年における本願寺派の保育事業奨励は、農村寺院に対する社会からの批判がその背景にあった。農村不況の深刻化に伴って愛国婦人会などから「寺院の開放」が唱えられ、他方では1930年代にマルクス主義者による反宗教運動も展開されていた。このような寺院批判に対して、浄土真宗では親鸞教義と社会事業についての理論的架橋の試みがなされ、橋本顕誠『寺院と社会事業』(社会課叢書第三輯、1927年)や佐伯祐正『宗教と社会事業』(顕真学苑出版部、1931年)などが発表された。
 本願寺派は、1927(昭和2)年9月15日から10月14日までの1ヶ月間、築地本願寺において社会部主催の保育事業講習会を開催し、その翌年に講義録『保育事業概論』が社会部叢書第四輯として発刊される。その「緒言」を執筆した当時の社会部長・藤音得忍は、「児童問題」を最も根底的な社会事業であるとして、児童にかかわる人達に宗教的信念を涵養することが、急務であると述べている。また、1923(大正12年)年の関東大震災後に設立された築地本願寺社会部の初代部長・後藤環爾は「保育事業と宗教」と題した講演(『保育事業概論』社会部叢書第四輯、1928年)のなかで、罹災したこどもが劣悪な環境で暮らしていることを危惧して「保育」に重点をおいたことを述べて、宗教者が「保育」に携わる意義に言及した。
 また、本願寺派では、大正天皇の即位を記念して「日曜学校」を開設し少年教化推進のきっかけとなった経緯があり、昭和天皇の御大典記念事業では幼児保育の推進が提唱され、本願寺派の機関誌『教海一瀾』745号(1928年10月15日)に、御大典記念として「本派保育事業の奨励」と題する記事が掲載された。そこでは、保育事業の奨励を末寺に求め、「積極的方面」として農村の農繁期託児所、都市部の年末託児所といった幼児保育施設の開設を勧め、「消極的方面」として少年審判所の所在地や候補地の寺院に「少年保護事業、不良少年少女の感化保護に関する事業」開設を奨励することが記されている。この記述から、本願寺派は児童を対象とする事業として、不良少年らの感化更生に対し、幼年期からの「保育」を通じての非行防止、ひいては動揺する社会情勢下での治安維持に寄与することを期待していたと氏は述べる。さらに、当時の「保育」とは、児童を対象にした社会事業全体のなかの主に乳幼児を対象とする事業・施設に対する名称といった意味しか持たなかったことが述べられ、この時期において浄土真宗独自の「保育」論の萌芽はまだ見受けられないと結論した。ただし、1928(昭和3)年11月24日に西本願寺書院で開催された本願寺派の保育事業大会では、協議事項として仏教主義の「保姆」養成機関の設立や、短期の「保姆」講習会の開催、真宗教義に基づく保育内容、及び研究の必要性などが提起された。
 また氏は、農繁期託児所の実情として、戦前期は託児所「保姆」の資格規定がなく、対して幼稚園「保姆」については、1891(明治24)年の文部省令第十八号において「幼稚園保姆ハ女子ニシテ小学校教員タルヘキ資格ヲ有スル者又ハ其他府県知事ノ免許ヲ得タルモノトス」と規定され、1925(大正15)年の「幼稚園令」(大正十五年勅令第七十四号)と同「施行規則」によって、尋常小学校本科正教員程度以上の者が「保姆」有資格者と定められている事実を紹介し、大正末期から昭和初期にかけて託児所施設が爆発的に増加したにもかかわらず、託児所「保姆」の地位向上はいまだ不十分であったことを指摘した。
 『季節共同保育所』(中央社会事業協会社会事業研究所編、1940年)によると、「保姆」は短期の季節保育所保姆講習会に出席させて働かせることが大半であり「季節保育所の保姆は十六、七の娘から四十過の婦人に至る迄師範卒あり、女学校卒あり、高小卒あり、尋卒ありと云った形でその学歴。教養にずい分甚だしい差異があり、したがってその養成方法も簡単ではない」といった様子であった。石清水矢麿は「農繁期託児所の経営に就て」(『教海一瀾』第730号、1927年)において、「保姆」は専門の教育を受けた者を雇うべきだが、農村では適任者の採用が難しいので、「保姆」の第一要件はこどもの遊び相手を勤められることであると述べる。さらに石清水は、数人の「保姆」を指示する寺の坊守、村長や駐在の妻、さらに16時ごろには学校を退勤した女教員が託児所に現れるのを目撃し、「斯やうに篤志の婦人達が総出になって働けば、託児事業も案外簡単に進められるに違ひない」と私見を述べた。
 したがって、昭和初年の段階では、農繁期託児所の運営には、専門的理論や具体的経験に基づいた「保育」がそもそも志向されておらず、保育に携わる人材も「篤志の婦人達」が前提とされていた。
 氏は兵庫県で農繁期託児所を立ち上げ、「兵庫県農繁期託児所奨励規程」の成立にかかわった花円淵澄の保育理念について検討した。花円は関東大震災直後の融和運動にも参加し、1926(大正15)年4月に融和団体である「神崎郡清和会」を設立する。その活動概況に「児童融和教育」の項目が組み込まれている。
 花円における「融和保育」観は、花円が小学校教育について言及した「宗教教育の一部門としての児童融和教育に就て」(『一如』昭和11年第3号、本願寺一如会)で確認することができる。このなかで花円は、感化されやすい児童が、家庭内で大人の差別発言をまねることで性格を歪めてしまうことを危惧するが、むしろ融和教育によって児童から家庭の大人に融和教育を普及する意図を述べる。
 最後に氏は、戦時体制に対する仏教保育の変遷を今後の課題としたいと述べて報告をまとめた。

             会場の様子

つづいて、中根真氏は「浄土真宗本願寺派保育連盟『保育資料』創刊以降の20年―目次・掲載内容の傾向分析の試み―」と題し、現在進行中の研究プロジェクトの経過報告をおこなった。
 『保育資料』とは、浄土真宗本願寺派保育連盟が1953(昭和28)年12月創刊され、現在も継続して発行されている機関紙である。
 
 氏は『保育資料』の総目次一覧の作成をおこなうなかで、執筆者の性別や属性、寄稿内容、各種の特集や座談会などの企画内容の傾向を把握し、「まことの保育」の形成過程、殊に戦後に憲法や民法が変化するなかにおけるジェンダー規範とその特徴について明らかにすることで、保育関係者間の言説に表現される性別役割分業の顕在的かつ潜在的な意識に注目するねらいがあるという。
 まず、浄土真宗本願寺派保育連盟とは、1948(昭和23)年4月に発足した浄土真宗本願寺派保育事業協会を1968(昭和43)年に改称したもので、仏教保育を推進し、従来の教団内における保育事業の統合や組織化を目指して設立された。設立時は保育の研究や講師の派遣、資料頒布などをおこない、京都保育研究所を京都保姆養成所内(京都高等女学校内/現・京都女子大学内)に発足させたという。
 その機関紙である『保育資料』創刊号には当時本願寺派の総長であった藤音得忍が「創刊に寄す」と題して寄稿している。藤音は、1953(昭和28)年当時本願寺派では1200ヶ所以上の幼児教育施設と季節保育所を有しているが、当局者が適切な教化方針と技術を施設に対して示してきたのかと問いかける。『保育資料』創刊の目的は、➀保育の経営者が当面する問題を分析し、今後の幼児教育施設設立の手引とする、➁教諭や「保母」に最も求められている教材を中心に、すぐ現場で使用できるものを作成する、➂宗祖親鸞の精神に立脚して信仰を深め、互いの教養向上の助けとする、と述べている。
 また、氏は宇治氏や盛氏の報告にも登場した藤音が、戦後も本願寺派保育を牽引していることに言及して、当時の本願寺派は教団としての教化を重要視していることを指摘した。1949(昭和24)年10月には社会事業協会を発足し、全教区の寺院に対して保育所新設を要請、新設の場合は奨励金などの贈呈もおこなった。1950(昭和25)年3月、第112回定期宗会における総長施政方針演説では、保育事業の普及徹底に全力をあげる旨が述べられ、仏教保育の推進が表明され、社会事業協会主事の赤松賢秀も、保育事業は単に幼児を育成するということにとどまらず、「教団の将来を左右する教化活動」であると述べている(『本願寺新報』1950年3月)。
 次に、氏は、『保育資料』の分析にあたり、「ジェンダーと国際性」(那須英勝・本多彩・碧海寿広編『現代日本の仏教と女性―文化の越境とジェンダー―』法蔵館、2019年)という視座を援用することで、日本仏教に派生する「仏教保育」や「仏教社会福祉」を問い直すことが可能ではないかと考える。明治憲法と日本国憲法、生存権規定の有無など保育や社会福祉の理念に関わる戦前と戦後の相違はあるが、ジェンダーの視点は戦前・戦後を一貫して批判的に捉えることを可能とするからである。
 ジェンダーの視点から『保育資料』の総目次を検討すると、例えば、創刊号の寄稿内容15本中12本が男性執筆者によるものであった。また、女性執筆者による記事は、保育の現場に直結する内容(例:カリキュラム、おやつ)である。氏は河合隼雄『子どもと学校』(岩波新書、1992年)に依拠して、「男性の目」は対象を自分と切り離し、客観的、あるいは部分的に認識するものであるのに対し、「女性の目」は、自他が未分化な状態のまま、主観の世界を尊重しつつ対象を見ることが可能で、明確さを犠牲にしても全体を把握しようとするものであると説明する。河合は、ここでいう「男性の目」「女性の目」は必ずしも性別と一致するものではないとして、現象を観る際には両者の視点を必要とすると述べている。
 つづけて、1954(昭和29)年4月に公表された「保育カリキュラム試案」の委員会19名中女性は6名であったことが紹介された。その6名は当時の本願寺派保育における女性リーダーたちであり、とくに浅井つね(京都)、緇川春子(島根)、一花一枝(京都)においては『保育資料』への寄稿数も多いことが確認されているという。氏は、今回のプロジェクトははじまったばかりだが、『保育資料』の執筆者は女性より男性の割合が多いことは明確であり、また女性の寄稿内容はカリキュラムや保育内容、遊び、おやつなど、こどもの保育や生活の実際にかかわる記事であると述べた。
 さらに、1958(昭和33)年8月3日に開催された第二回仏教保育大学講座の参加者募集記事(『保育資料』6巻5号、1958年6月)では、各教区教務所からの推薦によって、本願寺派と大谷派から各100名ずつ女性実務者限定で参加可能となる旨が記されていた。このような学びの機会に参加条件を設けて女性実務者に限定していることは、宗門が戦前の家族国家観を継続して抱いていたことの表れではないかと投げかけて、今後慎重に検討したいと述べられた。
 さいごに、『保育資料』の総目次一覧を完成させ、WEB上で情報公開するなど、総目次一覧をふまえた研究・教育(研修)の深化をはかることに繋がればと述べて報告は締められた。

 質疑応答では今後の研究に資する意見や情報がさまざまに交わされ、現代の保育士事情などにも及び、盛況のうちに閉会となった。

研究プロジェクトメンバー