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【報告】児童保護班・オンライン公開研究会「仏教孤児院の創設と展開-児童保護における明治期から昭和期への連続性を問う-」【世界仏教文化研究センター 応用研究部門】

2026.03.07

 2026年2月20日(金)14:00より児童保護班・オンライン公開研究会「仏教孤児院の創設と展開-児童保護における明治期から昭和期への連続性を問う-」が開催された。
 はじめに中根真氏(本学短期大学部教授)によって開催趣旨説明があり、二件の研究報告がおこなわれた。

▲金見倫吾氏

 金見倫吾氏(筑紫女学園大学非常勤講師)による「龍華孤児院研究の到達点―何がどこまであきらかになったか」と題した報告では、福岡の龍華孤児院が取上げられた。

 龍華孤児院とは、『教学報知』(1901 年9 ⽉24 ⽇)によると、⿓華孤児院は真宗の僧・七⾥恒順が設⽴した私塾「龍華教校」を、その子息・順之が孤児院としたものである。博多の萬⾏寺内にあり、1901年当時には収容「児童六⼗七⼈内男五⼗、⼥⼗七にして学齢のものは⼩学校へ通学せしめ他は皆院内に於て教育をなせり」という様子であり、同時期の九州の孤児院と比べて大規模な収容・養育がおこなわれていたという。
 ⿓華孤児院の⽀援者は、真宗本派寺院関係者に限らず、⾏政、メディア、各地有志者・篤志家から⼀般市⺠まで幅広く存在していた。 
 金見氏は、これまで不明であった「院」の運営実態とその思想とを明らかにし、近代仏教社会事業史の⼤きな空⽩部分を補うことで、社会的実践⾯と、その仏教理解やこども観といった信仰・思想の⾯との有機的連関性に着⽬して本研究に着手したという。また、龍華孤児院の『⽉報』を蒐集・分析することで、近代仏教史・寺院史・児童福祉史・地域史・⾏政史、あるいは孤児院の事業に関連する炭鉱事故や東北飢饉といった災害史などの各分野に新たな史料を提供することが可能であると述べられた。さらに「院」の慈善活動の運⽤実績やその⼿法・理念が解明されることで、現代の社会課題であるこどもの貧困対策に多くの有益な情報を与えることになるという。 
 龍華孤児院関連の資料収集は、これまで中西直樹氏・鷺⼭智英氏・髙⽯史⼈氏等をはじめ、金見氏自身においてもその調査成果がある。このような成果をもとに⿓華孤児院の実態が明らかにされた。

 金見氏は社会状況によって孤児院への社会的関⼼が⾼まり、幅広い階層の⼈びとによる⽀援の輪が広がったと述べる。その社会状況とは、1904(明治37)年に日露戦争、1905(明治38)年に東北大凶作が起きたことが挙げられ、それ以降の1906(明治39)年~1910(明治43)年の龍華孤児院収容人数は、以前が80~90人前後であったのに対し、130~140人に増加している。また、それに伴って『福岡日日新聞』の龍華孤児院関連の記事も1905(明治38)~1908(明治41)年に増加していることが指摘された。
 
 なお、龍華孤児院の⽀援者は、寺院関係者・団体(仏教婦⼈会など)の例もあるが、興⾏界関係者、地域有志者・篤志家、鉄道会社、学校関係者、炭鉱関係者、労働者など多岐にわたっていることも紹介された。
 また龍華孤児院の生活において採用されている「飽食主義」は、キリスト教孤児院である岡山孤児院の「満腹主義」の影響を受けているとする髙石史人氏の指摘も存在する。そのほかにも、音楽隊や院内教化活動等に岡山孤児院の影響がみられるが、院内教化活動には「真俗二諦」を実践するという方向性も示されていた。

 金見氏は総括として、⿓華孤児院の経営を支援した各業界団体や有志者、市⺠等幅広い層の人々は、七⾥恒順の教化活動による寺院ネットワークを核に参集し、龍華孤児院に対する関⼼と善意は、新聞等のマスメディアを通して⾼められたと述べる。⿓華孤児院における児童の処遇は、仏教主義にもとづきながら「真俗⼆諦」的な発想の枠内にあり、「善良ノ国⺠ヲ養育スル」(⿓華孤児院規則)ことを目指すものであったが、さらに児童の処遇の詳細やこども観を把握するために、新たな『⿓華孤児院⽉報』の発⾒が待たれると述べて、報告を終えた。 


▲堺恵氏

 二つ目の報告は堺恵氏(本学短期大学部教授)による「丙午のこどもたちを救え!―因伯保児院における藤岡吉平らの活動」と題した報告がおこなわれた。

 『本派本願寺社会事業便覧』(本派本願寺教務局社会部、1931年)においては、因伯保児院(鳥取県)の沿革には、当時は「マビキエビスリヒ」、いわゆる堕胎や嬰児の命を奪う間引きの風習があり、明治政府によって禁止されているにも拘わらずおこなわれてたと記載される。
 「マビキエビスリヒ」の件数は丙午の年に増加することから、その防止のために、1906(明治39)年に因伯保児院の前身である因伯仏教孤児院が八雲龍震によって設立されたという。
 堺氏は上述の創設経緯と、現在においても因伯保児院の後身施設が存続していることに注目したと述べる。
 丙午の迷信について、吉川徹氏『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(光文社新書、2025)では、丙午の女性は気性が「荒く」、婚姻に差し障りがあるという風説が江戸初期以降にひろがったとされるが、東アジア社会にはこのような迷信はほとんどなく、歌舞伎や文楽などの題材になった「八百屋お七」の生年が1866(寛文6)年の丙午の年であったことから始まったと考えられている。
 堕胎や間引きは丙午に拘わらず日常的におこなわれていたが、丙午の年ではより躊躇いなくおこなわれていたことも、その人口減少から窺える。1846(弘化3)年の丙午の年には、他の年に比べて女性人口が男性より著しく減少していることから、堕胎ではなく間引きがおこなわれていた可能性も指摘されるが、出生の届出を前後の年にずらすという事例もあったという。
 佐伯元吉『藤岡吉平伝』(因伯保児院、1918年)によると、因伯孤児院(現社会福祉法人因伯子供学園)の創設に関わった藤岡吉平においても、1846(弘化3)年丙午の年の生まれだが、父母が生年を偽装したとされる。吉平はその父母の恩に報いるために「丙午の子を救う」と述べている。吉平は、はじめは家業の傍らで農村での聴き取り調査をおこない、妊婦に堕胎の意思を聞いて「心得違い」を説くなどしていたが、次第にその活動に専念していったという。時には死産したこどものなかで「疑わしい」ものがあれば警察に報告などもしていたことから、その活動を批判する者もいたが、1886(明治19)年には堕胎の件数が減ったとして鳥取県令から表彰をうけている。また吉平の巡回日誌には、妊婦の年齢・住所からその家庭の貧富状況や備蓄にいたるまで記されている。
 そうした活動をおこなうなかで、吉平は単に堕胎や間引きを「非」とするのではなく、貧困であれば養育することもかなわないとして、孤児院の設立を計画する。しかしその建設中の1909(明治39)年10月に吉平が他界したため、その活動は吉平と交流があり、本派本願寺派(1909年当時)の教誨師として活動した妙寂寺住職・八雲龍震が引継ぎ、1909年11月18日に妙寂寺境内に「因伯仏教孤児院」が設立された。
 『因伯保児院要覧』(因伯保児院、1918年)によると、因伯保児院では毎日の本尊礼拝や毎週日曜日の講話などの仏教的なルーティンや、2週間に1回の散髪や入浴頻度(5月~10月は毎日、11月から4月は隔日)なども定められていた。また、卒院児は社会から「白眼視」されて職に就くことが難しかったため、成長した院児達によって楽隊が組織され、県境あたりの山村にも巡回して、その認知を図った。また、山村・漁村等での幻燈や活動写真の上映をすることで、人権や人間の親愛などの強調をおこなった。このような活動は「山間僻地の文化啓蒙」という側面もあり、また、現在の児童養護施設における退所児へのアフターケアに通じるものがあるのではないかと堺氏は述べる。
 一方で、1917(大正6)年12月末の院児は8歳以上18歳未満の院児が22名であり、その内女児は4名と少ない。大杉由香氏「明治期における棄児・幼弱者たちの処遇と救済の実態」(『環境創造』27、2021年)によると、その背景には水商売や売春業者の存在、家事や子守役などを女性が担っていたことが指摘されている。
 また、保児院の運営については、院長・八雲は僧職であり寺院などの法務があったため、その妻・数枝が院母として八雲とともに保児院の管理をおこなったが、院児の日常生活の大半は数枝が支えていたと考えられるという。
 ここにおいて堺氏より、本報告で扱った因伯保児院創設の経緯をふまえると、今回の報告タイトルは誤りで、「丙午のこどもたちを救え!」ではなく、「マビキエビスリからこどもたちを救え!」のほうが適切であること述べられた。

 最後に因伯保児院では仏教者による児童保護のなかにも「少年教化」があり、住職や坊守の性別分業・役割分担は、八雲が仏教・真宗教化・訓育を、数枝は日常生活の世話や家庭教育・躾などを担っていたとまとめられ、今後は他施設との比較や因伯保児院周辺への理解を深めることが挙げられ、報告を終えた。

 

 報告後にはディスカッションもおこなわれ、盛会のうちに研究会は締めくくられた。