Research Center for World Buddhist Cultures(RCWBC)

世界仏教文化研究センター

ホーム 研究 世界仏教文化研究センター > News > 【報告】2022年度第1回龍谷大学世界仏教文化研究センター公開セミナー「日本における宗教と社会倫理の役割と実践―戦後日本社会におけるエンゲイジド・ブディズムの特質―」

【報告】2022年度第1回龍谷大学世界仏教文化研究センター公開セミナー「日本における宗教と社会倫理の役割と実践―戦後日本社会におけるエンゲイジド・ブディズムの特質―」

2022.10.17

2022年9月30日(金)、今年度第 1 回の龍谷大学世界仏教文化研究センター公開セミナー「日本における宗教と社会倫理の役割と実践―戦後日本社会におけるエンゲイジド・ブディズムの特質―」が開催された。本セミナーでは、島薗進氏による基調講演の他、大河内秀人氏、小原克博氏、近藤俊太郎氏、 岩田真美氏によるコメントおよび、登壇者全員によるパネルディスカッションが行われた。司会・進行は嵩満也氏が担当した。

 嵩満也氏(龍谷大学国際学部教授)が今回の公開セミナーの趣旨と目的について紹介をした後、島薗進氏により基調講演がおこなわれた。

基調講演

島薗進氏 (上智大学グリーフケア研究所客員所員・大正大学客員教授・東京大学名誉教授)

島薗進氏

 島薗進氏は、古代インドや現代タイをはじめ、現代日本における宗教と社会倫理の役割および実践について発表した。現代タイにおける仏教を擁護する国王と在家の目標は「正法」の理念をより広げることにあり、これは古代インドのクシャトリヤ(武士王族階級)が目指したダルマを基にして世を治めるという理念と類似している。戦後日本では、戦時中の日本における仏教が果しえた役割について盛んに議論された。中村元は仏教のこのような社会倫理について『宗教と社会倫理』に詳細に論じている。氏によれば、国家を主導する理念は既に古代インドの宗教の中にあり、仏教史ではその代表的な例はアショーカ王である。その意味で、世を治めることで正法を広めるといった理念は、仏教本来の思想であったとも言える。それと同時に注意すべきは、大乗仏教における宗教団体は、常に国王から距離を置き、政治と関与しないスタンスをとっていたことが歴史的に確認できることである。

 例えば、日蓮の『立正安国論』では「正を持って国を安んずる」ことが論じられており、日蓮宗が近代の日本社会では大きな影響力も持った。これは、アショーカ王のように王権をもとにして社会参加する宗教観と類似している。しかしそれは、政教分離制度が浸透した現代社会では、個々の自律的な社会参加が主流に変わった。また、公共宗教として、宗教的な基盤を持ちつつ多様な思想が併存する近代の民主主義社会では、発言や行動(例えば、教育や福祉などの分野よく見られるように)を通して、宗教の社会倫理を世に及ぼしていくということが起こっている。そのことは、江戸時代の寺子屋の事例から分かるように、前近代の日本でも珍しくはなかった。さらに遡れば、行基や空海、そして忍性のような僧侶が、国家の支持を得ずに平和や社会教育や福祉のために行動した例は多数確認することができる。このような行動が宗教の社会倫理のモデルとなったのである。世俗化によって宗教の影響力が後退する一方、公共宗教としての自覚をもつ宗教がその影響力を増していると考えられる。

 しかし、明治維新から敗戦までの80年のあいだは、日本の伝統仏教にとっては自律性をもって社会倫理的な言論や行動が難しかったことは事実である。それは、国家が建前上、信教の自由を掲げながらも、ある種の宗教的な枠を持っており、その枠を超えることを許容しなかったからである。「皇道仏教」などはこうした考えの延長線上に存在していたと言える。

 その一方で、こうした国家への従属に全面的に吞み込まれることなく、仏教的な社会倫理を主張し、それを社会活動に具体化していく事例も少なからず見られた。例えば、日蓮宗の支持者であった宮沢賢治の作品の中には、国枠主義的な思想は見られない。同じく、浄土宗の僧侶であった渡辺海旭のように、大正期の仏教界の社会事業をリードした人物もいる。しかし、明治後期・大正期の日本におけるこうした社会参加型のエンゲイジド・ブディズムは、1930年代の全体主義のうねりのなかに吞み込まれることになった。

 戦後日本では、戦争責任の問題や差別問題との取り組みを通して、伝統仏教の社会倫理の顕在化が進んできた。とりわけ、戦後の仏教教団において「正法」の語が一定の役割を果たした代表的な事例として、女性の活躍の場となった曹洞宗の「御詠歌講」が挙げられる。1952年11月にスタートされたこの御詠歌講の目的の一つとして、「本講は正法に依遵し、仏祖の恩徳を讃仰して、詠歌を奉唱する本宗の僧侶及び檀信徒を講員として、その信念を培養し、資質を向上するを以て目的とする。」ということが謳われた。このことから分かるように、ここでは「正法」の概念が重視されている。また、1960~90年代にかけて、世界宗教者平和会議(WCRP、RfP)による世界規模の平和運動もある。さらに、80・90年代の社会支援活動としては、シャンティ(シャンティ国際ボランティア会、1980年)やアーユス(アーユス仏教国際協力ネットワーク、1993年)などが、代表的な事例が挙げられる。2000年代に入ると、伝統仏教によるこうした社会参加への関心は、原発災害、環境問題、人権、化学的な倫理などといった新たな問題へ変遷していくことになる。2011年の東北地方太平洋沖地震および福島第一原発事故の後、災害支援や防災、地域社会での臨床宗教師、さらには生命科学の倫理的限界の議論など新たな社会倫理的な取り組みがなされている。現在、日本の宗教に問われているこうした問題は、これからの仏教界の大きな責任でもある。

大河内秀人氏

コメント

大河内秀人 (浄土宗僧侶、ソーシャル・ジャスティス基金企画委員)

 基調講演の後、大河内秀人氏による「エンゲイジド・ブディズム」というテーマで活動報告が行われた。氏はパレスチナやエルサレムの問題、さらにはルアンダ虐殺事件後の平和活動などに関わってきた経験について紹介し、社会の中で実際に苦しんでいる人々を支えていくことは宗教の本来の任務であり、宗教関係者としては様々な社会問題に取り組むのが責任でもあると主張した。

小原克博 (同志社大学神学部教授)

小原克博氏

 小原克博氏は、島薗進氏が基調講演で指摘した「公共宗教論」のテーマを取り上げ、公共宗教の歴史的な変遷を明らかにしつつ、教育者は現代社会においていかなる形で関わっていくのか、その模索が重要な課題であると述べた。現代社会における若者の政治参加への低い関心や、社会をより良い方向へ変えようとしない姿勢は大きな問題ではないかと指摘した。こうした状況のなか、宗教団体や宗教関係者らは、若者へ接する機会を作り、若者が諸社会問題に関心を持つような環境を作ることが重要であると強調した。

近藤俊太郎 (本願寺史料研究所研究員)

 近藤俊太郎氏は「「社会倫理」と否定性」という点から島薗進氏の発表に対してコメントを行った。近藤氏は、まず本公開セミナーの副題にある「戦後日本社会」は、「戦後を考えるということの前提には戦争があり、その戦争とはアジア・太平洋戦争であるため、そうした文脈を踏まえた上で「宗教と社会倫理」について考える必要があると述べた。そして、現代における「社会参加仏教」は必然であり、社会に参加することそのものが重要ではなく、むしろ「社会にどのように参加するのか」という点を重視すべきであると指摘した。近藤氏はこうした「社会との参加の仕方」について考える際、大事なのは「批判性」と「否定性」だと述べた。そのことは、島薗進氏が指摘した「自律性」と重なるものである。他方、日本における国家を支えた近代仏教は、統治権力と異質の宗教性をほとんど持ち合わせていなかったのも事実であり、統治権力と異質な宗教性をどのように確保するかが、戦後日本の仏教による「自律的な社会参与」の条件になるのではないか。近藤氏は、このような状況の中では「否定性としての社会倫理」が重要であると主張した。

近藤俊太郎氏と岩田真美氏

岩田真美 (龍谷大学ジェンダーと宗教研究センター長)

 岩田真美氏は、島薗進氏の発表内容を踏まえ、戦後日本における社会活動の一環として「仏教とSDGs」の事例を取り上げつつ、その問題点を紹介した。2018年の第29回WFB世界仏教徒会議では「慈悲の行動―生死の中に見出す希望」という東京宣言が行われた。このように全日本仏教会による仏教とSDGsを結びつける活動が行われつつある。 そして、仏教とSDGsを考えるとき、SDGsで取り上げられた17の社会課題のうち貧困、ジェンダー、不平等、教育、気候変動、平和、パートナーシップなど重要な問題に関しては、宗教団体が社会貢献を行うなかでどうしても無視できない課題である。身近な事例としては、近年、龍谷大学では「ジェンダーと宗教研究センター」が設立され、ジェンダーと宗教の研究が行われている。その一方で、日本におけるSDGs活動の多くは、企業の商売的な戦略であり、あるいは環境問題だけに集中するなどしていて、例えば人権や貧困、ジェンダーといった問題に対して真面目に取り組もうとしないことも多いのではないかとも述べた。

パネルディスカッション

嵩満也氏 島薗進氏 大河内秀人氏

 諸氏によるコメントの後、嵩満也氏の司会のもとで登壇者全員がパネルディスカッションを行い、活発な議論を交わした。島薗進氏は、岩田真美氏の日本におけるSDGs取り組みやジェンダー問題についての言及に対して、これからは他者に対する接し方および社会的な包摂の在り方が重要ではないかと指摘した。小原氏は、浄土真宗における「弥陀の本願」はキリスト教(とりわけプロテスタント教)における信仰のみによって救われるという概念と似ており、こうした考えは場合によって、自己正当化にといった危険性につながる恐れもあると述べた。最後に聴衆者からのコメントの後、本公開セミナーが終了を迎えた。