【報告】2022年親鸞浄土教総合研究班講演会「摂化する浄土―真仏土と方便化身土との二重性―」
2022.10.31
2022年10月7日(金)、大谷大学名誉教授の加来雄之氏をお招きし、「摂化する浄土―真仏土と方便化身土の二重性―」をテーマにご講演をいただいた。
はじめに氏は、「従如来生」をキーワードとして、真宗学という学問は、如来を中心として受け止めていくことが重要であると指摘し、釈尊が悟った内実は「如来」であり、「如来」の中で人生を生き抜いた者が釈尊であると語られた。
親鸞は釈尊の悟った「如来」を、『無量寿経』によって「従如来生」と受け止めた。浄土真宗の教相の根源には従如来生があり、これを明らかにしたものが教行信証、浄土真宗であるという。「従如来生」を根本回向と位置づけ、それを衆生が受け止める時、往相と還相という二種の回向が課題として現れるのである。その時に基礎となる者が浄土である。一般に浄土とは、真宗の中では、衆生が往く場、そしてその場から還ってくると捉えられている。加来氏は従来の解釈を衆生の現実として肯定しつつ、一方で、如来のはたらきの中で、現実に私が生きるとはどういうことかという問題に立ち、還相、真仏土、化身土を読み解くと、新たな風景が立ち上がってくるのではないかと述べた。具体的には、「証文類」にある「然れば弥陀如来は如従り来生して、報・応・化種々の身を示し現したまふなり」の文をいかに解釈するのかという問題である。ここで「摂化浄土」という風景が明らかになってくる。
『無量寿経』の説かれる往生には、命終を契機とするものと、命終を契機としてないものが説かれている。氏は前者を衆生から浄土へ向かうことによる生まれを説いており、後者は浄土が衆生を包摂することによって生まれを説くという。『岩波仏教辞典』の「浄土」には、「往く浄土」「成る浄土」「在る浄土」が説明されているが、武内義範は「将来する浄土」という概念を提示した。加来氏は武内の概念をさらに進め、他力の教えにおける浄土、つまり親鸞の仏身仏土の理解は、「包摂する浄土」もしくは「摂化する浄土」であると指摘した。厳密には「従如来生」の願海酬報を本質とし、「従如来生」の報応化身による摂化(摂取と教化)をはたらきとする浄土である。
続いて、「従如来生」の解釈をめぐる一つの流れとして相伝教学を紹介された。相伝教学は、本願寺歴代が口伝したものであるが、現在は表舞台から姿を消している。その特徴は往相回向、還相回向は一つの如来のはたらきの二面性であって、衆生が命終後、浄土から還ってくることではないとするものである。大谷派では香月院深励、本願寺派では等心院興隆などが相伝教学を厳しく批判している。加来氏も相伝教学を肯定する立場には立っていないが、「従如来生」を考える上で大きく示唆を受けたという。
「従如来生」という視点に立ったとき浄土、真仏土、化身土がどのような意味になってくるのか。特に化身土には、衆生の心が作り出した世界や、真仏土に生まれる前段階の世界であるという理解がある。加来氏はこれらの考え方を批判的にみる。氏は化身土を真仏土として顕かにされた大悲のはたらきが濁世の現実において無限の具体的教化のはたらきとして展開する相と受け止め、またそのはたらきかけを単なる前段階ではなく、有限なる私たちを摂化するはたらきであり、私たちは有限であるかぎりその悲願の中に生きていく、その摂化のはたらきとして受け止められた。 還相回向は如来が菩薩として、どこまでも一切苦悩の衆生に摂化していこうとする課題が示されているとみていくと、還相回向には、浄土として展開することによって迷いの衆生を包み込んでいき、真仏土化身土として展開している。摂化する浄土という視点は、今如来の内世界に生きているという意味を真仏土と化身土という意味で明らかにしていくことができる。それは様々な問題を抱える現実の人生を、どのように生きていくかということを仏土の中に聞き取り、考えていくことができる。決して浄土は死後の現実とは無関係の世界ではないとして講演を締めくくられた。