【報告】Neutralizing the Insider Threat: The Madhyamaka Assimilation of the Three-Nature Theory(「仏教内部からの脅威を無効にする―三性説の中観派的同化―」)
2022.12.19
12月8日(木)、大蔵経総合研究班において、オーストリア科学アカデミーのアン・マクドナルド(Anne MacDonald)博士を講師として招き、「仏教内部からの脅威を無効にする―三性説の中観派的同化―」をテーマに講演会を開催した。以下、アン・マクドナルド博士の講演内容を要約する。
【英文要旨】
By the sixth and seventh centuries in India, the ontological and epistemological doctrines of the Buddhist Yogācāra school, as well as its logical theories and regulations, had come to pose serious challenges to the Mādhyamikas. Both Bhāviveka and Candrakīrti struck back, formulating arguments intended to reveal the flaws in their opponents’ doctrines and thereby diffuse the threat to the Madhyamaka school. The lecture will examine the unique ways in which these two Mādhyamikas faced off with the Yogācāras, and highlight and compare their concerns. Significantly contributing to our understanding of Candrakīrti’s arguments is his Madhyamakāvatāra and its auto-commentary, previously available only in Tibetan translation but now accessible in a Sanskrit manuscript.
【和訳要旨】
6世紀から7世紀のインド仏教界では、瑜伽行派の存在論と認識論の教義及びその論理的な枠組みと規則が共に、中観派にとって深刻な挑戦となった。そして、中観派を代表する学匠である清弁(バーヴィヴェーカ)と月称(チャンドラキールティ)が瑜伽行派による批判に対して、瑜伽行派の唯識思想が持つ欠点を明らかにし、中観派への脅威を無効にするための論証を展開していた。本講演では、瑜伽行派と対峙した上記中観派の二師が展開した独特な論証方法を検証し、その問題意識に焦点をあてつつ比較検討を行う。月称の論点を理解する上で、重要な役割を果たすのは、彼の著書『入中論』及びその自註である。従来はチベット語訳しか知られなかったが、現在は梵語写本を参照することができ、月称の議論をさらに深めることができる。
【報告内容】
講演のメインテーマは、中期中観派を代表する学匠である月称と清弁が、同じく仏教徒である瑜伽行唯識派からの批判に対してどのように対処したかを詳細に検討した上で、最終的には瑜伽行派の代表的な学説である「三性説」を『入中論』の中で月称が中観派の視点からどのように解説したかが明らかにされた。
冒頭で、『瑜伽師地論 菩薩地』「真実義品」の「概念や言葉の基盤としてのvastumātraの存在を認めるべし」という一節が取り上げられ、それは全ての存在を否定する「虚無論」を否定するが、完成された唯識思想のように全ては心の現れであるという「幻影論」でもない、「唯名論」とでも言うべき中間的立場に立っていることが指摘された。
これに対して、清弁は『中観心論』第5章第82−83偈で、上記の「真実義品」の記述を発達した瑜伽行派の唯識思想と理解した上で、瑜伽行派が中観派を虚無論と捉えて批判したものと捉えて、反論している。
清弁と同時代の瑜伽行派の護法は、中観派の『四百論』に対する注釈で「空性の直証は虚妄分別の束縛を打破する」と説明するが、同様の記述が月称の『四百論注』にも見られることが着目される。一方、清弁は『掌珍論』で護法もしくは陳那を批判しているとされる。このように6−7世紀のインド仏教界では、中観派と瑜伽行派の間で議論の応酬があり、中観派は一種の「脅威」を感じていたと想像される。
ここで、清弁は例えば『中観心論』第5章第1偈で、「瑜伽行派」という名称を用いているのに対して、月称は『入中論』で「識論者」「アーラヤ識論者」などの名称を用いるが、「瑜伽行派」という名称は用いないのが注目される。
瑜伽行派と対峙するとき、清弁と月称は同じ見解を表明するのが見られる。例えば、両者は『十地経』の「一切は唯心」という言明を「十二縁起」の文脈で理解すべきだと述べます。一方、共に「三性説」を否定するが、清弁は「円成実性」、月称は「依他起性」の批判に重点をおいているという違いも見られる。
これは、『入中論』の蔵訳からの優れた仏訳者であったドゥ・ラ・ヴァレ・プサーンも気づかなかった点であるが、同書の梵語写本の発見によって、月称が陳那の『集量論』第1章第12偈を引用して批判していることが明らかになった。
最後に、三性説について、月称は、「依他において、自性が作られたものとして遍計されるが、自性は作られたものではない。縁起し、作られ、影像のようなものが認識されるとき、遍計される自性も、仏智の領域においては真実である。作られたものに触れることなく、純粋な自性(kevala-svabhāva)を直証するから、まさにそれを覚るから、「仏」(目覚めたもの)と呼ばれるのである」と三性説を中観派の視点から解釈している。
ここに「純粋な自性」と言われるのは、『明句論』で「勝義の自性」と呼ばれるものに相当し、月称が否定の対象とされる「自性」とは別に「空性」を対象とする一種の「神秘的な智」(グノーシス)、神秘的経験を認めていたことが窺われる。これは、清弁が「認識しないことによって、勝義は知られる」というのと対比されるであろう。