【報告】2021年度沼⽥智秀仏教書籍優秀賞受賞記念講演会
2023.04.25
2023年4月7日(金)に、2021年度沼⽥智秀仏教書籍優秀賞の受賞者であるクリストファー V. ジョーンズ(Dr. Christopher V Jones)ケンブリッジ大学、セルウィン・カレッジ教授(Selwyn College, University of Cambridge)による、受賞記念講演会が行われた。講題は “Retracing the Development of Early Buddha-nature Teaching in India”(「インド初期仏性思想展開過程の再検討」)であった。桂 紹隆氏(仏教伝道協会理事長)がコメンテーターを務め、司会・進行は本学教授の那須英勝氏が担当した。
仏教研究ではよく指摘されるように、現世と来世における人間の永続的かつ不変なる我(アートマン ātman, permanent self)と見なされるものは、いかなる場合でも存在しないという考えは、仏教の教えの礎となってきた。古代インドの他の宗教では、本当の自己存在の根拠となる「我」を探求し、それを発見することが大事にされたのに対し、仏教の教えでは、人間の経験のなかで常に変わらないものを探し求めることの虚しさについて積極的に説かれてきた。しかし、インドの初期仏教では普遍なる我への探求に関する言及は全くなかったのだろうか。実は、数少ないながらも、紀元前のインドで書かれた大乗仏教の伝統に属する影響力のある一連の経典では、一切衆生が常に、そして輪廻転生の過程において、永続的かつ超越的な仏性を持っていることについての言及がある。このような言及は、tathāgatagarbhaという謎めいた表現について論じる際に述べられており、そのいくつかのテキストによれば、これこそは真の意味での「我」であるという。本講義では、Jones氏が主にインドの初期仏典に見られる仏性の概念について説明しながら、東アジア地域におけるその受容についても検討された。
Tathāgatagarbhaとは、「仏の胎/胎児」「仏を包含するもの」「仏の蔵」などの意味を持っている。Garbhaとは大切なものを包含する蔵を意味するが、漢訳仏典では「蔵」として翻訳・理解されたのに対して、チベット語訳では「本質的なもの(本性)」として翻訳されている。Jones氏によれば、漢訳仏典におけるgarbhaとは、「仏を包含する蔵」であり、これはインド仏典(例えば、Mahāparinirvāṇa-mahāsūtra)における、一切衆生はtathāgatagarbha であるということを意味している。漢訳仏典では「一切衆生有如来蔵」と言及されており、「有」という字からも分かるように、一切衆生がtathāgatagarbha を有しているとして捉えている。また同じように、buddhadhātuという表現も用いられるが、これは「仏の本質」を意味し、漢訳仏典では「一切衆生の内には buddhadhātuがある」という言及があり、これもインドの初期大乗仏典の意味と一致しているという。
次に古代インドにおける如来蔵(tathāgatagarbha)思想関連の諸文献について考える際、高崎直道氏の『如来蔵思想の形成』(1974)に提示された分類は有益である。高崎氏は如来蔵思想形成史を描く上で、まず『究竟一乗宝性論』に結実していく流れとして、「三部経」に着目した。そして「仏性」関連のテキストとして『涅槃経』『央掘魔羅経』『大薩遮尼乾子所説経』を挙げ、gotraに関連するものとして『大雲経』『大乗十法経』を挙げた。このように多くのテキストがありながらも、これらのほとんどは原典が現存しておらず、漢訳やチベット訳といった翻訳が存在するのみである。そして、これらは必ずしも同じ原典を翻訳したと考えられないことに注意が必要である。例えば、仏性について議論する時、東アジア地域では『涅槃経』が重視されてきたものの、このテキストの四分の一に当たる内容は一つの原典から直訳されず、その内容もインドの『涅槃経』と大きく異なる。むろん、原典が不明な『涅槃経』の内容は重要ではないということではなく、そのような内容に関しては、他の内容と区別して検討すべきである。
そこでJones氏は、自著The Buddhist Self: On Tathāgatagarbha and Ātman(University of Hawaii Press, 2021)において、仏性の概念の歴史的な変容について検討するために『如来蔵経』『不増不減経』『勝鬘経』『涅槃経』『央掘魔羅經』『大法鼓經』『究竟一乗宝性論』『入楞伽經』を主要な研究対象のテキストとした。これらのテキストはいずれも一切衆生は仏性を持っていると論じているが、仏性について微妙に異なる形で論じられており、上記の著書では、仏性に関するこうした異なった議論について検討される。仏性について触れられたインドのこれについて論じた最初のテキストについては何であったのかについては、異論があるものの、氏は先行研究を踏まえて、『涅槃経』がその最初のテキストである可能性があると考えている。なぜなら、『涅槃経』では「仏の性質(buddhadhātu)は一切衆生に存在するものの、それは様々な苦の様態によって覆い隠されているので、衆生は、自らの内に、その存在を見ることができない。」と説かれているからである。
チベット訳『涅槃経』では、我が実際に存在しているにもかかわらず、人々はブッダの謎めいた発話について無知であるため、我の不在について心を養うのであると記されている。漢訳『大法鼓經』(Mahābherī-sutra)でも、我が存在することについても論じられている。しかし、ここで注意しなければならないことは、古代インドにおける「我(ātman)」の概念は、必ずしも一種類のものではなく、多義にわたる概念であった。その一種が「仏性」の概念として初期大乗仏教で展開したものが仏教独自の「我」および「仏性」の概念であった。後に、古代インドの「我(ātman)」の概念は、このように大乗仏教思想の中で変容していったのではないだろうか。
例えば、『勝鬘経』(Śrīmālādevīsiṃhanāda-sutra)では、古代インドのように、如来蔵(tathāgatagarbha)は我の概念と類似してものではなく、輪廻と往生に対する人間の意識として捉えている。如来蔵についての様々な解釈は、心についての教えとしてしか残らず、最終的には瑜伽行唯識学派の教義体系に組み込まれることになる。氏は、如来蔵という表現のこのような歴史的な展開と仏性の概念の変容過程の更なる検討対象として、現在『大雲経』(Mahāmegha–sūtra)について研究を続けている。このテキストは、これまでに漢訳とチベット語訳しか存在しないと思われていたが、近年、そのサンスクリット語版も発見された。このテキストでは、「如来蔵」という表現は一回しか使われていないものの、如来蔵という概念に類似した内容が頻出しており、初期大乗仏教における仏性の概念を理解するために新たな光を与えることが期待される。Jones氏は、これまでに如来蔵の概念を検討するために対象とされなかったこうしたテキストを検討対象とし、初期仏教のみならず、東アジア地域における如来蔵と仏性の概念について研究を続ける予定である。